株式会社コスモピア
代表取締役
IT システムの導入や運用に関するサポート業務を手掛ける株式会社コスモピアを創業した田子さん。大学生のときに起業した学生ベンチャーの草分け的存在です。女性の起業家育成やキャリア支援の活動をされたり、地元故郷の萩では「ふるさと大使」を務めるなど幅広い分野で活躍されています。今回は、ご自身の半生についてお話しいただきました。
女性が働ける場がない現実に愕然とする
私は、山口県の萩で生まれました。萩は幕末に吉田松陰を輩出したところでもあり、子供の頃から独特な教育を受けて育ちました。特に明倫小学校では、松陰先生の言葉をまとめた「松陰読本」を副読本にして、毎朝起立して松陰先生の言葉を詠唱します。至誠の精神や志を持つことの大切さを学びました。
ただ、せっかく教育を受けても、萩では女性が働ける場があまりなかったんです。母は教師、父も公務員でしたので、公務員として働くことはわかる。でも、それ以外の職で女性の働き方が見えませんでした。「私に何ができるんだろう?どんな可能性があるんだろう?」ということがわからず、それが不満でした。「東京に行ったら何かがあるかもしれない」そう思って親の期待に背いて上京し、早稲田大学に入学しました。
「早稲田に行けば、女性でもマスコミなどへの道が開けるかな?」と淡い期待をしていましたが、そんな簡単な道はありませんでした。当時はまだ雇用機会均等法が成立する前のこと。男子学生は有名企業からリクルートが大量に来ますが、女性には全く来ない。当時は女子大生ブームで、アルバイトでは男性よりも時給が高かったくらいです。でも、就職に関しては全く相手にされませんでした。
男性と女性でここまで大きなギャップがあることに愕然とし、「自分のアイデンティティって何なんだろう?」と悶々とした日々を過ごしていました。でも、「何かあるんじゃないか?」と可能性の模索を続けていたとき、文章を書くのは好きだったので、企画会社でイベントなどの企画書を書くアルバイトを始めました。そこであることに気づきました。「科学技術がどんどん発展しているのに、そういう理系の難しい話をわかりやすく伝える人がいない」と。そこで、女子学生たちとチームをつくって、「科学技術をわかりやすく伝える」ことをテーマに活動を始めました。
就職先がなく自分で仕事をつくる
大学4年のとき、この女子大生チームで経団連で情報通信技術の発達によるライフスタイルの変化について、セミナーを行いました。これは就職のためのコネが見つかるチャンスかも、と密かに期待しましたが、そこで大手企業の方々と話をしてみて、「あ、女性を戦力として採用する気はないんだな」と改めて気づきました。当時、女子社員はクリスマスケーキと呼ばれ、25歳までに結婚退職して家庭に入る生き方を求められていました。優秀でも25歳で辞めるのだから会社として育てる気はない。その現実がよくわかりました。
一方で、消費者、生活者としての女性の感性が求められる時代が来ていることも、活動をしながらわかっていました。「社外の女性の力を活用したい」そのニーズはある。就職先はないけど、仕事の依頼は来る。そこで、そのまま活動を続けることにして、大学卒業とともに株式会社コスモピアを創業しました。起業後は、例えば広告代理店や電電公社(現NTT)などから依頼され、「ニューメディアで世の中が変わりますよ」ということを女性の目線でわかりやすく伝える仕事などをしていました。
仕事を始めると「女子大生企業の社長」としてマスコミからの取材がバンバン入ってきました。当時、女子大生向けの雑誌であった「オリーブ」に始まり、経済誌、新聞、TVに至るまで、毎日のように取材がありました。それを見た企業からの仕事もドンドン入ってくる。当初はワンルームマンションでスタートしましたが、女子大生が一杯で酸欠状態になってきた。そこで、2DKで寝泊まりができるところに引越し、朝まで企画書を書き、シャワーを浴びてプレゼンに行くといった無我夢中の日々を送っていました。
会社も家庭も壊れかけた20代
20代の前半は、「世間が見る目」と「実際の自分」とのギャップに悩みました。マスコミや講演ではカッコイイことを言う自分がいます。でも、実際はまだ20代。そこまで成熟はしていません。「本当の自分って何だろう?」と思うこともありました。仕事をしていると、女子だけのチームなので、まとめていくのが大変。学生は就職していくと辞めていくので入れ替わりも激しい。社長になりたいというモチベーションがないまま社長になったので、仕事に追われる日々に「仕事だけの人生はイヤ」と次第に思うようになりました
女性らしいライフスタイルに憧れていたこともあります。そこで25歳のとき結婚し、翌年には子供も授かりました。ただ、結婚後も多忙を極め、仕事中心の生活は変わりません。バブル経済の時期だったこともあり、会社は順調に売上を伸ばしていきました。でも、家庭の方はうまくいかずに29歳のとき離婚しました。
そしてまもなく、バブル経済が崩壊します。売上が半分になり「会社は大丈夫か?」と社内に動揺が走りました。すると、社内の人間関係が悪くなり、辞めていく人が出てきました。さすがに、このときは「会社を売ろうかな?もうやめようかな?」と考えるようになりました。でも、辞めずについてきてくれる社員がいます。不景気なので単価は下がりましたが、取引をやめる顧客もいませんでした。「ついてきてくれる方々のために頑張ろう」と思いました。
起業したての頃は、「誰かのために会社をつくった」という意識はありませんでした。優秀な女性でも結婚しか選択肢がないことはもったいないし、活かしてくれる会社がないので自分で仕事をつくった感じです。すると、同じ境遇の人や同じ想いを持った女性が集まってきて、仕事も増えてきた。バブル後に苦しい経験をしたことで、初めて「集まってきた人のために私がやらなきゃ」と使命感を覚えるようになり、会社を続ける道を選びました。
女の子社長から経営者として認められた30代
30代になると、10年会社を続けてきたこともあり、周りから「女の子社長」という目で見られなくなり、ひとりの経営者として扱われるようになりました。また、自分の言っていることとやっていることが一致してきて、腑に落ちるようにもなってきました。ようやく仕事がやりやすくなり、仕事を楽しめるようになってきました。私生活でも仕事や家庭のことに理解をしてくれる男性と出会い、再婚しました。ようやく公私ともにドタバタした日々に終止符を打ち、新たなスタートを切ることができるようになりました。
それまでは、自分にもプライドがあって、いろいろなところで戦ってきました。「女の子ということで仕事をもらっているんでしょ」「女性に科学技術なんてわかるわけがない」そんなことを言われ続けてきたので、その声に負けないように無理に肩肘張って仕事をしていたところがあります。それが、次第に肩の力を抜いて仕事ができるようになりました。
そして、「わかりにくい技術をわかりやすく伝える」ということを軸に据え、三つの業務を柱にしたビジネスを展開していきました。一つは、ICT関連のサポートです。システム導入に伴うマニュアルの作成や教育、ヘルプデスクの設置などによりトータルにサポートしています。二つ目は、先端技術を用いた製品やサービスの展示案内、PRツール作成などを企画から制作、運営までをすべて行います。三つ目は、書籍やウェブなど、コンテンツの企画制作です。これらの事業を進めることで業績も拡大していきました。
会社の新しい展開を模索した40代
40代に入り、会社の次のステージを考えるようになりました。業績も拡大していたので、「上場を目指そうかな?」とコンサルティング会社に入ってもらい、事業計画の作成を始めました。しかし、上場計画を作成していく内に「上場しても誰も幸せにならないのではないか」と思うようになりました。上場するためには、今以上に売上や利益を追求していくことになります。でも、当社は女性社員が中心で、子育てなどもあり、売上を伸ばすためにガンガン働くというカラーが合いません。
唯一気がかりだったのは出資を受けていた株主のこと。報いるためには上場した方がいいと思っていました。ただ、株主の方から「そもそも応援するために出資しただけだから気にする必要はない。上場するのが自分や社員にとって本当に幸せか良く考えた方がいい」とアドバイスされました。また、コンサルタントから「ベンチャー企業の社長は年4000時間は働かないとダメ」と言われ、「そんな生き方したくない」と思い、上場を目標にするのはやめることにしました。
ただ、じっとしていられない性格で、何か新しいことをしたいとは思っていました。そのとき、世間には精神的に疲れて顔色がすぐれない人が増えてきて、街頭も荒んできていることに気づきました。「社会が経済効率を追求し過ぎた結果、疲弊している人が多くなったのかな?」「このままでは日本はヤバイ」と感じました。そこで、「癒しを求める人のための場を提供しよう」と台湾茶の喫茶店を開きました。
台湾から直輸入したお茶や、本場を模した店のインテリアの評判は良く、マスコミからの取材も相次ぎましたが、思うように売上が伸びません。お茶だけでは単価が低いので、夜はお酒も出してみましたが、立地が悪くお客も増えません。仕方なく自分で店に行ってビールを飲んでいましたが、「これでは自分が体を壊す」と思いました。また、こちらにばかり気を取られていると本業も傾くと思い、2年でやめました。お店をたたむときは、さすがにつらく、泣きながら片づけをしていました。
ただ、その直後にリーマンショックが起こり、あのタイミングで撤退を決断して良かったと思いました。また、2年間新しいことにチャレンジしたことで、学んだことも多くありました。仕入れから決算まですべて自分で処理したので、会計知識が付いたのも収穫でしたし、貿易やBtoCビジネスの難しさも知りました。そして何より、自分に適性のないことは、やるべきではないと痛感しました。
女性が活躍できる活動を社内外で始めた50代
50代に入り、東日本大震災が起こりました。当社でもオフィスの天井や壁にひびが入る事態を目の当たりにし、今までの考えを変えなくてはいけないと思うようになりました。当社に登録しているスタッフは約1,000人います。当時は、人事関連の書類をすべて紙で保管していましたが、災害で紙がなくなると業務が行えなくなります。30年蓄積してきた紙をすべてペーパーレスにするのはさすがに無理と思っていましたが、株式会社ダンクソフトの星野晃一郎社長のアドバイスの下、ペーパーレスの導入に踏み切りました。
同時にオフィスを移転してクラウドを導入し、座席を固定しないフリーアドレスを実現。その結果、在宅勤務も可能になり、スタッフがどこにいても仕事ができる体制になりました。当社のスタッフは9割が女性で、ワーキングマザーも多い。自宅に居ながらも仕事ができるようになり、仕事と子育ての両立が図りやすくなると考えています。
また、この年代になってから社外で活動する機会も増えてきました。例えば、新しいビジネスのための政策提言や起業家育成の支援を行う東京ニュービジネス協議会(NBC)では、副会長や「女性の活躍推進委員会」の委員長として女性の活躍機会を拡大させる活動に取り組みました。
また、日本クロスカルチュラルコミュニケ―ション協会(JACCA)を設立し、ワールドカップや東京オリンピックに向けて、異文化コミュニケーション人材育成の取り組みも始めました。日本の良さ、外国との文化や社会の違いなどを私たち自身が認識しながら、外国人に対して日本の魅力を伝える人を全国規模で増やしていくことを目指しています。
志をつなぎ、社会を変える
先日、女子学生向けの講演会で、受講者に仕事と家庭の両立ができると思うか質問したところ、ほとんどの学生が無理と思っていることがわかり、大変ショックを受けました。当社では、スタッフのほとんどが女性で、育児をしながら仕事をするのは当たり前なので、両立は普通のことと考えていました。でも、若い世代の多くが違う見方をしている現実を見て、「親の世代である私たちがロールモデルになりきれていなかったんだ。まだまだやることがある!」と思いました。
30年間会社経営をしてきたのは、そもそも自分自身が女性として企業で働くことの難しさを感じたからのことですが、それが今もあまり変わっていない現状を憂いています。これから何年仕事ができるのかわかりませんが、女性のキャリアや起業を支援し、応援団になることが自分の使命だと感じています。これまで自分が積み上げてきたものを社会に還元する集大成の時期だと思っています。
その一つとして、故郷山口県では、女性の創業支援活動をお手伝いしています。地方では、まだ女性の起業家が少ないですが、創業したいとの想いや情熱はビンビン伝わってきます。そういう方に勇気をもって社会を変える志を持つことの大切さを伝えることができればと思っています。「自分が社会を変えていく」という志を持ち、人に伝えていけば、共感する人が集まってくる。「この指とまれ」と指を上げることが起業の一歩だと話しています。
また、生まれ育った萩市の「ふるさと大使」として、萩の魅力をPRしたり、サテライトオフィスを設置するなど地元で仕事をつくることもしていきたい。地元の人が自分の生きがいとなる仕事をみつけてイキイキと過ごす。それが地域経済の活性につながる。そんな場や機会をつくることも夢に描いています。
私はスイミーの話が好きです。小さな魚は大きな魚の前では、ひとたまりもない小さな存在です。でもみんなが集まって行動すれば、大きな魚にも負けません。私たち人間も同じです。一人一人の存在は小さく、できることに限りはあります。でも想いを同じにする仲間が集まれば大きなことができます。「志をつなぎ、社会をかえる」これは当社が掲げる理念ですが、この想いを大事にして、これからもいろいろな活動に取り組んでいきたいと思っています。
1960 年山口県萩市生まれ。早稲田大学在学中に女子学生による科学タレントチーム「ザ・コスモス」を結成し、経団連軽井沢フォーラムでサイエンスショーをプロデュースし好評を得る。同時に、企業社会における戦力としての女子学生への期待値の低さを実感し、自分たちの仕事作りのために、1983 年大学卒業時に株式会社コスモピアを設立、代表取締役に就任する。公職では、一般社団法人日本クロスカルチュラルコミュニケーション協会常務理事、一般社団法人東京ニュービジネス協議会特別理事、NPO 法人ふるさと山口経営者フォーラム常務理事事務局長、萩市ふるさと大使などを務めている。また、経産省や文科省など中央省庁や、東京都など自治体の審議会・委員会委員を多数歴任。子育て中はPTA会長も経験し、「起業」「女性の働き方」「地域活性化」などの講演も多い。