Leaders1000 リーダーが語るの人生の軌跡

vol.036 大嶋潤子さん

2016/04/25 (月)
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大嶋潤子さん

シンガーソングライター

全盲のシンガーソングライターとして、歌で多くの人に生きる勇気と希望を伝えている大嶋さん。32歳のときに失明してから不屈の精神でプロの歌手になり、その後、ご自身の波乱の人生を語りながら歌う「ドキュメンタリーコンサート」や、アイマスクを用いて想像力を鍛えるオリジナルのセミナーを開催するなど、斬新な取り組みをされています。今回は、ご自身の半生と将来の夢についてお話しいただきました。

32歳で突然失明し、絶望の淵をさまよう

私は、20歳のときから司法試験の勉強を8年続けました。法律事務所を経営していた父から、長女だった私は、「弁護士になって、後を継ぎなさい」と耳にタコができるくらい聞かされて育ちました。他の道を選ぶ選択肢がなかったんです。でも、私自身はアート系が好きで、高校時代は写真部に入るほど。夏休みにモデルの撮影をしたりして、将来はアート系の学校に行きたいと思い、父に伝えたら、「親子の縁を切る」と言われました。

大学は法学部に入りましたが、しばらくは部活(馬術部)に熱中。父から、「早く勉強を始めなさい」と言われ、法律の勉強に没頭していきました。この8年は、遊んだ経験がほとんどなく勉強漬けの日々。試験には受かりませんでしたが、8年目に、「自分は法律が好きじゃないんだ」と初めて気づきました。合格した友人は、みんな三度の飯より法律が好きという方ばかり。でも、自分は違う。この世界から足を洗って、結婚し、専業主婦になりました。でも、平穏な日々も束の間のことでした。

32歳のとき、突然失明しました。家事どころか、自分のことも何もできない。私のわがままで、離婚して実家に戻りました。「この先、どう生きていけばいんだろう?」絶望的な気持ちになり、しばらく寝たきりの生活をしていました。ただ、お腹の中に赤ちゃんがいたんです。でも、その子が生まれてきても、「目の見えない私が、この子に何ができるんだろう?」そう悩み、考えていたとき、ふと心の目に「不屈の精神」という言葉が映りました。黒字の縦書きで、はっきりとその五文字が見えたんです。「そうか、不屈の精神か。私の生き様を見せることで、このことを一生かけて子供に教えよう!」そう決意したとき、失明してから初めて涙が出ました。

大嶋さん2

それから手探りでいろいろなことを始めていきました。「子供に離乳食をつくってあげたい」そう思い、区役所に「どうしたらいいか?」と相談に行きました。すると、視覚障害者生活支援センターを紹介してくれ、そこで掃除や料理など日常動作の訓練を始めました。ちなみに、点字のクラスもあり、そこで今の夫と知り合い、結婚しました。彼も、会社に勤めていたとき、突然失明し、会社を辞めて、ここに通っていたんです。

ただ、このセンターに行くには、家からバスで駅まで行き、電車に乗り、そこからまたバスに乗る。とても一人では行けない。そこで、ガイドヘルパー制度を利用して、付き添ってもらって通いました。でも、当時の制度は無料で利用できる時間が少なく、半年後には有料になってしまう。「半年で一人で行けるようになろう!」と覚悟を決め、杖の使い方や歩き方など必死に歩行訓練を受けました。その結果、半年後には、なんとか一人で行けるようになりました。

でも、家のことは何もできない。例えば、キッチンはセンターと家とでは大きさもシンクの場所も違う。物の位置を一から覚える訓練が別に必要でした。でも、なかなかうまくできず、最初の夕食をつくるのに5時間もかかりました。あと、布団も干せない。両手で持たないといけないので、片方の手を使って竿の位置を確認できない。重たい布団を地面に落としては拾い上げる。そんなことを繰り返す。心が折れそうになりましたが、そのたびに「不屈の精神」の五文字を思い出し、一つずつできることを増やしていきました。

大嶋さん3

41歳で歌に出会い、自分の使命を悟る

子供が幼稚園に通うようになり、音楽教室に連れて行くようになりました。子供がギターを習ってる間、手持ち無沙汰でヒマになります。待っているだけだと時間がもったいないので、「私も何か習おうかな?」と考えました。小さい頃、ピアノを習っていましたが、さすがにこれは難しい。たまたま、子供が習っている時間にクラシックの声楽のクラスをやっていました。「歌は興味ないけど、歌詞を覚えればいいだけなので、できるかも?」「カラオケでシャンソンぐらい歌えるようになりたいな」そんな軽い気持ちで習い始めました。41歳のときのことです。

何度か通う内に、だんだんはまってきて、「あ、自分に向いてる!」と思いました。根が真面目なので、先生に言われた通りにやる。すると、抜きん出て上達していきました。あとで聞いた話ですが、先生は最初に私に会ったとき、「才能があるので、将来うまくなるに違いない」そう感じたそうです。うまくなってくると、人前で歌いたくなる。それに、イタリアのカンツォーネの情熱的な表現も自分に合う。「プロになりたい!」と思うようになり、必死で練習しました。更に上達してくると、コンクールに出たくなり、その指導をしてくれる先生のところに通うようになりました。その年からコンクールに出て、翌年には二次審査を通り、本戦に出る。次の年は審査員特別賞、その後2年続けて3位となりました。

大嶋さん4

その後、コンクールは卒業して、リサイタルを始めました。すると、大勢の人が来てくれ、反響が大きいことにビックリ。それに、数多くの暖かいメッセージをいただきました。「大嶋さんの姿を見て勇気をもらいました」「自分の悩みが小さく見えてきて、悩んでいたけど頑張ろうと思いました」「感動しました」「生き方に感銘を受けました」などなど。また、私が舞台に出ただけで泣く方もいます。恐らく、ここまでの道のりの過酷さを想像し、感極まったのだと思います。

そのとき、「あ、何も言わなくても姿を見ただけで伝わるんだ!」と感じました。そして、「これからは、自分の生き様を見せることで、人に勇気を与えていこう!」と初めて自分の使命を悟りました。当初は、「歌が上達したところを見せて、みんなに褒めてもらいたい」そんな軽い気持ちで歌うことを始めました。でも、それからは、「私だからこそ言えるメッセージがある。そんな自分の想いを歌詞にして伝えていこう!舞台で生き様を見せていこう!」そう考えるようになりました。

大嶋さん6

心のスクリーンに映像を映し出すと夢が実現する

その後、ある音楽プロデューサーの方に出会い、クラシックからポップスに転向することにしました。クラッシックは、イタリアとかヨーロッパでは普通のおじさんが口ずさむ気軽さがあります。でも、日本では敷居が高い。これでは、多くの人にメッセージを伝えることができない。そう考えての決断でした。ただ、クラシックは裏声、ポップスは地声で歌います。そうそう簡単なことではありません。でも、その方から、「地声で歌わないと、隣のおばちゃんや16歳の女の子に想いを伝えられないよ」と言われ、訓練を始めました。そして、自主製作のオリジナルのコンサートを始めました。半分は自分の半生を語り、半分は歌う構成です。それを、トークコンサートと名付けました。

また、トークライブセミナーも始めました。一般に視覚障害に関するセミナーは、例えばアイマスクをして歩き、不自由さ、不便さを味わってもらうというマイナス面に焦点を当てたものばかり。でも、私は、視覚障害を持つと知覚能力が発達するというプラス面を取り上げることにしました。米国カリフォルニア大学のローレンス教授の研究によると、ある感覚を封じると、例えば目が見えていた人が失明すると、他の感覚が視覚を補おうとして潜在能力が働くとのこと。それは失明しなくても、60分アイマスクをしただけで、その能力は働き出すというのです。

大嶋さん5

例えば、目が見えなくなることで、脳裏に映像を映し出す能力が磨かれていきます。脳科学用語では、それを「知覚能力」と言いますが、私は「心のスクリーン」と呼んでいます。私の場合、自分が歌っている感覚を心のスクリーンにはっきりと映し出すことができます。表彰式でトロフィーをもらっているシーンも映画を見るようにありありと映し出せるのです。そして、見えたものは、すべて実現してきました。心のスクリーンに映し出した夢は実現するのです。それは、本来、誰でもできます。でも、目が見えていると他の感覚を使わなくて済むので、できない方が多いんです。

そこで、アイマスクを使って、他の感覚器官から得た情報を心のスクリーンに映し出すセミナーを開催することにしました。例えば、点図(点字の図版)の点を触ってもらって、どういう図なのか映し出す。赤とんぼの曲を早回しでかけて、「夕焼け小焼けの赤とんぼ〜」との歌詞を聴いて、その映像を映し出す。アロマなどの匂いを嗅いでもらって、それを映し出す。強制的に視覚を閉ざすと、想像力が存分に発揮できるんです。最初はみんな、見えないことに不安になります。でも、60分くらいすると、潜在力が目覚め、想像力が磨かれていきます。そんなワークに歌もつけたセミナーも始めました。

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歌でみんなに生きる勇気と希望を届けたい

「人は困難の中でこそ成長し、本当の自分を見つけることができる。その先に幸せという光の世界が待っている」そう信じています。苦しいとき、つらいときは、マイナスのことばかり考えてしまうもの。でも、そうなると負のスパイラルに陥って、どんどん落ち込んでいきます。困難をマイナスにとらないで、「そこから何を学ぶべきか?」そう考えるようにしています。それが、いろいろなことを乗り越えるキーポイントだと考えているからです。

義母の介護をしたことがありますが、やはり大変です。歌の練習を犠牲にして、介護をしていましたが、そこからも得られるものはあります。その体験や介護の本から学んだことを歌詞にして歌って、みんなに伝えていく。すると、それは試練ではなく、プレゼントなのかもしれないと思えます。目の前に起きたことに誠心誠意取り組む。そうすれば、そこから何かを学ぶことができます。日常生活のすべてが学びであり、研鑽の場だと思っています。

また、8年間の長い司法浪人生活でも、得られたものもありました。一つのことを身につけるには、どれだけの努力をしなければならないかが、身をもってわかったことです。これは歌の練習にも活かされています。完璧な右脳人間の私が、少しでも論理的に考えられるようになり、バランスが良くなった。これは司法試験をやらせてくれた父のおかげであると、今では感謝しています。

大嶋さん8

今から思うと、失明が人生の出発点でした。それまで自分には本気で打ち込めるものがなかったんです。でも、失明したことで41歳のとき歌に出会い、初めて夢中になれるものがみつかりました。今ではこう言えます。「私は、32歳で光を失って、はじめて幸せになった」と。

失明してから、いろいろなことに挑戦してきました。今の夢は、2020年の東京パラリンピックのとき会場で歌うことです。今は、ほぼ自主開催でのコンサートなので、メッセージを伝えられる人が限られています。でも、パラリンピックで歌えたら、全世界の人にメッセージを伝えられます。自分の想いを、もっともっと多くの人に伝えていきたい。そして、勇気を与えていきたい。そうすることで、私の使命を果たしていきたいと考えています。

大嶋さん9

プロフィール

1960年東京生まれ。学習院大学法学部卒業。32歳で突然失明。その2年後、初めての子供を出産。生まれてきた我が子を手で触りまくり、目や鼻は傷つけてはいけないと思って、思わず唇で確かめた。「この子に何を教えてやれるだろう?」その答えは、心のスクリーンに映った「不屈の精神」の五文字。失明から9年後の41歳のとき、歌に出会う。自分の思いを表現できる喜びに、歌にのめり込んでいくうち、歌で勇気と希望を与えるという、己の使命・目的を知るようになる。その後、オリジナル楽曲の製作を開始し、2014年シングルCD「Mother」を全国発売。「心のスクリーン」・知覚 能力を発達させて夢を実現させていくセミナーをコンサートと融合して、全国各地で展開中。
2009年、2010年「太陽カンツォーネコンコルソ・クラシック部門」2年連続上位入賞。
2015年、波瀾万丈の人生をドキュメンタリータッチで織り込んだ「ドキュメンタリー・コンサート」を開催。
アイマスクを用いて視覚を遮断し、音声パソコンのスピード読み上げ機能を使った聴覚トレーニングワーク、点図を使った触覚トレーニングワークを考案。

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